二百十六から三つ、と神崎が言った。指揮棒の先で総譜の頁を叩いてから、手首だけを返す。四十二人ぶんの合奏がそこで一度に止まる。私は神崎の右うしろに立っている。副指揮の位置はここだと八年前に決められて、以来ずらしたことがない。灰谷結衣、三十一。この楽団で唯一の女の指揮者で、そのうえ唯一の副指揮だ。八年、一度も指揮台に上がっていない。上がるなと言われたわけではない。ただこの人が降りないので、上がる場所がなかった。神崎守道、五十八。三十四年ぶん指揮台に立っている常任指揮者。稽古場はもと中学の体育館で、床には二十年前の白い線がそのまま残っている。線を消す金がなかった。神崎の総譜には鉛筆の数字が入っている。小節の頭の余白に、ぽつぽつと、数字だけ。二百十六の頁の余白には三と書いてある。二百四の頭に八。二百二十七の頭に一。楽団の備品の総譜には何も書かれていない。この人の私物だけだ。八年、私はその意味を知らない。訊いたことは三度ある。三度とも、言い終わる前に別の話になった。二百十六で、神崎は腕を上げたまま三小節、振らない。四十二人はその三小節を、誰の合図もなしに渡りきる。三十四年、この人はそうやってきた。晩春、病院の紙が上着の内から出てくる。来年の春はない。その次はお前だ。私は見出し紙の束を床に叩きつけて、拾わずに出た。神崎の家の奥の洋間で、私は八年ぶんの録音を見つける。番号は三百二十四。全部に、灰谷、と書いてある。毎回録ってたんですか。録った。三百二十四回聞いて、この人はいいとも悪いとも言わなかった。総譜を借りて、私は頭から全部の頁を手帳に写した。第一楽章に十四か所、第二楽章に四か所、第三楽章に十一か所。全部で六十三か所になった。伸びるところと立ち止まるところにだけ数字がある。そこまでは分かる。その先が分からない。役員は後任の公募へ動く。神崎は代わりは立てんと言って拒み、その公募の文面を、私が書かされる。夏の通しの途中でこの人が指揮棒を落として立てなくなり、私は八年ぶりに、というより初めて、指揮台に上がった。私が欲しかったのは席じゃない。あの三がなんなのかを、一度だけ聞くことだった。六十三の数字は、一から順に聞いていく録音の途中で、読んでいるあなたにも自分で解けます。TL長編小説・全10章完結。
