いま、何本目。三十六本目です。波多野は台の端に伏せてある試香紙を左から数えてから答えた。八年、この人の声の高さは変わらない。御影蘭、四十二。自分の名前で世に出ている香は、数えて四十いくつになる。二十一年、私は自分の名で香を出してきた。四十二になってから、好きだと思うものの数がずいぶん減った。台の北の端に、木の受け台に据えた分銅が七つある。いちばん大きいものが親指の先ほどで、いちばん小さいものは爪の半分もない。真鍮の色はもうくすんでいて、面のところが手垢で丸くなっている。二十一年、この分銅を天秤に載せたことは一度もない。載せない理由を人に訊かれたら、私はいつも別のことを訊き返してきた。波多野、三十三。二十五でこの工房へ来て八年になる助手だ。三十七本目で新作が決まりかけたころ、この人の書く札から言葉が消えた。三十七。〇・二。数字だけだった。二階の窓から見下ろすと、波多野は試香紙を鼻に押しつけている。二年前に鼻が抜けはじめた、とこの人が言うのは、それからずっとあとのことだ。検査は十二のうち三つ。回復の見込みは低い。遠方の医者の封筒を私が差し出すと、波多野はその場で断った。二度目の封筒も断られた。六つのうち、私が差し出したものは全部断られている。私は何一つ渡せていない。数値を渡さずに一本組ませてみると、直すところのない香が上がってきた。台を三日並べ替えると、三度とも六分で元へ戻された。八年ぶんの手順を書いた紙が二十枚、私の前に置かれる。匂い袋が一つ。この人は自分の仕事を、渡せる形にして残そうとしている。私はその袋を四か月、上着の隠しに入れたまま、一度も嗅がなかった。八年、うちから出ていく香には必ず一本ずつ、この人の鞄に入る小瓶がある。栓をして、札を書いて、鞄に入れて、二十分歩いて、部屋の棚に立てる。一度も忘れなかった。雨の日、二階へ上がるのを一度断ったこの人が、自分でそれを取り消した。夜中に往復四十分かけて小瓶を一本運んできて、分銅の隣に置いていった。八月二十九日、招かれずに会場へ行って、番号だけの十本を嗅ぐ。これ、どなたの。その問いに、波多野が答えます。TL長編小説・全10章完結。
