あれ、千鶴さん、なんだべその紙は。戸羽のおかみが土間から首を伸ばして、柱に貼ったばかりの紙を見上げた。手紙一通八百円。願い状千五百円。詫び状二千円。訳が半日で三千円。いちばん下の一行だけ、空けてある。芦名千鶴が北の駅に降りたのは十一年前の初夏だった。二十二だった。西の家の結納の席で、最後の一行を読み終えたとき、この人は立った。何も訊かれないまま座っている人間は、その家の数の中に入っていない。それから十一年、この港町で代書屋をしている。人の紙を書く商売だ。朝は五時に合羽と長靴を土間から出して、漁港の聞き取りに出る。やませの朝は、灯台の根元しか見えない。厚東雅人、四十一。二十三で厚東の家を継いで十八年。この男が一つ頷けば二千人が仕事の中身を変える。十一年、年に一度この町へ来て、十一回とも黙って帰っていった。板戸を引いたのは、十三度目のことだった。名を訊かないまま引き受けた願い状の、差出人の欄に厚東雅人とあった。五万円ございます。千五百円だ。四万八千五百円、持って帰れ。厚東の言葉は、この町に一語も通じていない。千鶴は通訳として漁港に立つ。三月で覚えます、と寄合所で言って笑われた男は、長屋を言い値の三倍、千四百四十万で買い、そのあと百四十四万を捨てて売買を白紙に戻す。厚東は行李一つで南の一軒へ移り住んだ。革靴は使えない。千鶴は自分の合羽と長靴を貸す。返せと言われたその日、この人は洗わないまま土の上へ返して、それから浜に立てなくなった。店から客が消えた。この町で値を書いた紙を貼ったのは、千鶴が初めてだった。千鶴は柱に五行目を足した。町の衆も、右と同じ額をいただきます。十一年ぶんの無料仕事に、そこで区切りがつく。同じ日、厚東家へも同じ額の請求書を出した。十二月二十日、町の依頼が千鶴の店へ戻りはじめる。切符は四千二百円。十一年前と同じ額だった。この町の言葉を五百四十まで覚えて、意味の分かるやつが二百十一。九十二日目に、誰が置いたか分からない黒い合羽を着た男が、通訳なしで爺さまの話を返した。四千二百通、四十二束。そのうち自分のために書いた紙は零。親族十九人の前で、千鶴が自分の口で額を言うまで。TL長編小説・全10章完結。
