十九で姉に出ていかれた苗屋ですが、井戸から水を運びつづけたら、番頭が一日に一度だけ板の間の隅に湯呑を置いていかれます

十九で姉に出ていかれた苗屋ですが、井戸から水を運びつづけたら、番頭が一日に一度だけ板の間の隅に湯呑を置いていかれます

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百と四十、あります。去年より三十少ない。これで出しますか。猪瀬達之は表の土間にしゃがんだまま、指の腹で苗箱の角を順に押していった。葉山の家は田を持たない苗屋で、土地は苗床の八反しかない。この谷の田の八割に苗を入れてきた家だ。葉山千秋、二十九。十八の年に父が倒れて表の間に座り、十九で姉の万里が家を出て、二十一で正式に葉山を継いだ。縁談は三度あって、三度とも相手のほうから話が消えた。苗屋というのは、他人の田のはじまりを作る商いだ。作った苗が育つ田を、この家の者は一枚も持っていない。苗代の一反へ、朝と昼の二度、井戸から水を運ぶ。桶で十二杯。それを十一年つづけている。達之は三十四。十五で奉公に来て十九年目、二年前に前の番頭の跡を継いだ。板の間の隅、柱の陰になるところに、毎日この時刻、湯呑が一つだけ置かれる。淹れる茶は一日に一度きりで、二度目はない。ほかの者の湯呑には茶葉を二匙。千秋の湯呑には一匙半しか入れない。匙は途中でいちど止まって、半分だけ筒へ戻される。薄いのがお好きだと思っていますので。帯はもともと母が姉に渡したものだった。姉はそれを十年持って、返しに来た。噂を自分から引き受けた者の顔を、千秋はまだ読めない。初春、十年ぶりに姉が門に立つ。母の祝言の帯を返しに来ましたと言う。谷は同じ話をしはじめて、注文が二軒断られる。八年前に四十六軒あった得意先は、いまは四十一軒になった。父の帳に、二月十四日、皆済、と一行だけ書いてある。千二百円。どこから出た金なのか、姉は否定も肯定もしない。十九になった姪が二日歩いて訪ねてきて、帳を一日で読み切る。苗床の杭が三本抜かれた。表札の前で姪が足を止めた。十一軒を回って空回りした夜、千秋は初めて口に出す。姉は、していません。その夜、達之は板の間の隅で数を言う。一服の貸しです。今日ので五つになります。数えないと、返してもらえませんので。八年、この家の誰ひとり、その符牒に気づいていない。初春から初冬まで。数えられていた側が、その数の意味を知るところで終わります。TL長編小説・全10章完結。九月、十年前の金の綴じの二月分が一枚欠けていると分かる。役場まで辿って、それでも千秋は途中で自分から辿るのをやめた。
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    8月17日発売予定

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