恭は東の廊下の端に立ち、板の継ぎ目へ足の裏をそっと当ててから、いつものように数えはじめた。まだ誰も起きていない刻限で、屋敷の中は水を張ったように静まっている。二百七。この屋敷の段の数だ。榊原詩織、二十八。二十の年、灯のない石段を夜に一人で下りて池に落ち、頭を打って光を失った。二十二で家督を継ぎ、いつのまにか当主ということになっていた。目は見えない。だから数を持つ。八年ぶんの帳面を丸ごと頭に入れて、この家の身代を数だけで掴んでいる。一色恭、三十。十六で供の者として入って十四年目の侍従。八年、毎朝、暗いうちから屋敷じゅうを回って段を数え、詩織の前でそれを読み上げる。歩くときは手首を軽く二度打つ。二度なら段。四度なら曲がり角。七度なら人がいる。二人が一つ触れと呼んでいるこの合図は、六年前の秋に生まれた。詩織は八冊の帳面を読み上げさせて、恭が六月の一行を飛ばしたことを息の余り方だけで言い当てる。飛ばされた欄の下には、三十二年勤めた舟番の暇の書き足しがあった。あれはあの人のせいではない、と詩織は八年、同じ言い方でくり返してきた。頭痛の発作が重くなり、医者は池へ近づくなと言う。その同じ月に恭は、誰も使わないはずの池の石段へ、削ったばかりの白い栗の杭を五本打って手すりを付ける。理由は言わない。詩織が舟着きまで下りると言ったとき、六年で初めて、この男は命に背いた。三十二年勤めた舟番が暇を出されたのは八年前で、その男は五十二で死んだ。町へ下りた恭は、六人目にその知らせを聞き当てる。屋敷の決まりで、勤続一年につき月給の半月ぶん。三十二年で八十円。詩織はその金を出すと決めた。叔父たちが当主の資格を持ち出したとき、詩織は読み上げの数をすり替える試しを、数の並びだけで見破って一年の猶予を取った。八年、二人のあいだでは数だけが正しかった。親族は当主の資格を問い、読み上げの数をすり替える試しを仕掛けてくる。詩織はそれを数の並びだけで見破って一年の猶予を取る。八年、二人のあいだで数だけが正しかった。なぜ私の傍にいるの。その問いに答えられなかった夜から、二百七という数が二百十九になる冬まで。TL長編小説・全10章完結。晩秋、八冊のうちの一冊、十五本目の一行が読まれる。八年、恭がそこだけ声にしなかった行だ。
