墨壺を投げられた帳付けですが、片づいた事だけを欄に書きつづけたら、建築主が毎日わたしの野帳の頁の角を折って帰られます

墨壺を投げられた帳付けですが、片づいた事だけを欄に書きつづけたら、建築主が毎日わたしの野帳の頁の角を折って帰られます

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いくらだ。男は名乗りもせずにそう言った。八十。五十嵐澪はそう答える。二十八。十七から十一年、二十二の現場を回ってきた帳付けで、女の帳付けは珍しいと、行く先ごとに同じことを言われる。小石川の原町、坂を上りきったところの高台。敷地は二百坪。建築主の御堂英臣、三十九。二十一で始めて十八年、甲州の停車場も日本橋の銀行も四つの学校も、この人が建てた。訊いてもいないのに歳を言う男は珍しい。澪は初日に三冊の帳を一冊に組み替えて、丸太が四本足りないことをその日のうちに出した。縄張りが三間七寸で、材木屋への注文書だけが三間のまま。英臣は人前で、俺の落ち度だと言う。それだけのことを言える建築主に、澪は十一年で一度も会っていない。澪の帳には、他の帳付けが作らない欄が一つある。片づいた事だけを書く欄だ。戻さなくていい事です。そう説明すると、英臣は黙って、その頁の角を折った。一日の終わりに、澪は仮囲いの西の柱へ二寸の細い釘を一本打つ。三度叩いて、頭を半分残す。二本なら二釘だ。一本なら一釘だろう。英臣がそう言い当てたときも、澪は数の意味を説明しなかった。十七の年に父が倒れて、右が動かなくなり、口も回らなくなった。訊かなくなったら、誰もわたしに話しかけなくなりました。二十二の現場で、送られたことは一度もない。前の現場では墨壺を投げられた。腹も立たなくなった人の家は片づかない、と英臣は言う。長雨で丸太十一本が反り、野分で足場の上二層が崩れ、十八の人足が梁の下敷きになる。人日三百が消えて二百二十五円が飛ぶ。そのあいだじゅう、翌朝には必ず頁の角が折られている。澪は毎朝それを伸ばしていた。伸ばしても伸ばさなくても、翌朝には折られている。十月の夜、英臣は先の墨差しの来歴を話す。竹の色が残らないほど黒くて、先は元の半分もない。十七円九十銭。二十年前の証文のようなものだった。川原で、十八の人足の身元を聞く。四年前の野分で家をなくした子だった。澪はその子を頭数に入れてくれと、自分から人に頼む。十一年で初めて口にした頼みごとだった。十一月三十日の引き渡しまで。柱には二百八十本の釘が並んでいる。あの数が何の数だったのかを、澪が自分の口で言うところで終わります。TL長編小説・全10章完結。
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    8月18日発売予定

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