谷の奥に一軒だけある湯宿、鷺洞館。深沢佐和、二十九。十五で女中に上がって十四年、深沢の家は四代この宿の女中頭を務めてきた。四年前に先代が死に、屋敷が人手に渡るという話が谷じゅうに流れた冬、佐和は帳場の前で言った。屋敷が残るなら誰の下でもいい。それを聞いたのは古参の女中と男衆の頭だけで、以来この宿では、言わないでいることが仕事のやり方になった。初春、外から来た支配人が表玄関ではなく内玄関から入ってくる。鷲尾湊、三十五。女中と男衆合わせて十六人が並んで、誰ひとり口をきかない。しゃべるなとは言っていない。言わなくても、この四年でそうなった。湊はその晩のうちに帳場の客帳を初代から読み直し、五十四年ぶんの帳面から宿の穴を数え上げる。膳が一人前三十五銭、材の元が二十二銭。人の給金だけで泊まり賃を二十四円食い越している。四年、誰もその紙を開かなかった。佐和は湊の膳にだけ、布巾の端を留め結びにして添えた。ふつうの結びは異常なし。ひと重ねは今夜は無理をするな。二重にすれば今夜は帰るな。四代のあいだ女中衆のあいだだけで通ってきた結び目を、この男は一日で見分けて、意味を訊く前に手を止めた。隣の谷に新しい宿が建つという触れが出る。古参の男衆が三人、高い給金で引き抜かれる。やがて谷の湯の湧き口まで買い取られて、鷺洞館の湯を止めると触れが回る。隣の谷の女中頭に深沢の名で来いと持ちかけられ、佐和は断った。秋には屋敷の親族が支配人の解任を持ち出し、佐和に見限るよう求めてくる。そのあいだじゅう、佐和が帳場の前を通るたびに、湊の膝には背の糸が見えるほど古い初代の一冊が載っている。三月にも読んでいた。八月の終わりにも読んでいた。なぜと訊いても、この人は「はい」としか答えない。手の甲には、灰で灸をすえた古い凍傷の痕が残っている。袂の中では何かを削る音がして、出しかけては、しまう。十一年前の一月にこの宿の賄い場で何があったのか、佐和のほうは何ひとつ覚えていない。言わないでいることは四代ぶん練習してきた。言うことは一度も練習していない。二十九年、この喉が出したことのない音が出るまでの、初春から初冬まで。TL時代小説・全10章完結。
