崩し屋の一語を貼られた下絵描きですが、鍋を傾ける回数を数えつづけたら、工房の徒弟が夜ごと飴を引く前に声をかけてくれます

崩し屋の一語を貼られた下絵描きですが、鍋を傾ける回数を数えつづけたら、工房の徒弟が夜ごと飴を引く前に声をかけてくれます

出版社:
-
三年前、宮廷の菓子工房で、献上の飾り菓子が納品の前の晩に崩れた。高さ三尺、五段、飴の部品は百二十枚。菓子職人組合は「下絵に口を出した素人の令嬢のせい」と公表し、当時十八だったアデライド・ヴェルヌイは、何が起きたのかを聞かせてもらえないまま三日で工房を出された。それからの三年で彼女についた呼び名は一つきりだった。崩し屋。初春、二十一になったアデライドは、秋の祝祭菓子の下絵をふたたび任される。ただし条件がついた。菓子の前に立てる札に、女の名は載せない。百年前からそう書いてある。親方のユーグ・ペリエはそう言って、人の名を呼ばずに「そこの」で済ませる。組まされたのは、飴を引く男ジェルヴェ・ボナンだった。二十四歳、十二の年からこの工房にいる。会って半刻も経たないうちに、彼は鍋から目を離さずに言う。三年前のあれは、自分の炊き加減が半度高かった、と。組合の定めでは飴は百五十六度で引く。彼の手は百五十六度半で引いた。硬くなった飴に糖衣が負けて継ぎ目が緩んだ。原因はもう一つあって、運びの氷が足りなかった。三年言いつづけているが、名を持たない徒弟の言い分は一度も取り合われていない。アデライドには前の生の記憶がある。三十いくつまで、毎日三十種類のものを口に入れては言葉に置き換える仕事をしていた。だから彼女は数える。氷室に下りて塊を十四数え、麦藁の湿った五つを引いて九つと書く。壁の掟の板を全部読み、氷は荷馬車一台につき六貫と書き取る。秋の朝に一刻かけて運ぶなら九貫は要る。六貫と九貫。その差の三貫が、三年前の晩に床の上の砂糖の山になった。彼女は紙を柱の釘に掛け、どちらの数も消さずに残す。夜ごと彼が飴を引く横で鍋を傾ける回数を数え、七回の日と五回の日があること、その二回の差が半度になることを突き止める。十二年のあいだ誰にも見えなかった癖が、紙の上に出る。晩春、荷置き場で、アデライドは荷台の上のほうが外の空気と同じ温度であることを手の甲で確かめる。組合の車は一台、氷は掟どおりの六貫。彼女は門の外へ出て、月の小遣い銀十枚のうち八枚で氷と車を手配し、靴を脱いで荷台に上がる。菓子は崩れない。掟の九条は破られる。咎めは組合の者でない彼女には下りず、代わりに男の年季が一年延びる。初夏、彼女は会所の玄関に掛かった年ごとの目次を読み、三年前の秋にこの工房の名が一行もないことを見つける。受け取られなかった紙は、どこにも残らない。残っているのは人だけだった。王宮の広間に三尺の菓子が立ち、白木の札が置かれるまでの、三月から九月まで。異世界転生の恋物語・全10章完結。
一覧
  • 崩し屋の一語を貼られた下絵描きですが、鍋を傾ける回数を数えつづけたら、工房の徒弟が夜ごと飴を引く前に声をかけてくれます

    8月13日発売予定

通知管理

通知管理を見る

販売後に設定できるようになります

崩し屋の一語を貼られた下絵描きですが、鍋を傾ける回数を数えつづけたら、工房の徒弟が夜ごと飴を引く前に声をかけてくれますのレビュー

販売後に書けるようになります