記事が遅いと叱られた速記者ですが、正本にならない紙を綴じたら、議院の速記者が半年ごとに私の符号の脇へ書き足してくれます

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議場の底に速記台がある。演壇の左手前、議長席の斜め下に低くしつらえられた台に五人が坐り、十分ずつ交代して切れ目なく口述を取っていく。取ったものが正本になる。正本が反訳されて官報に載り、載ったものが、この国でその日そこで何が言われたかの唯一の答えになる。荒巻紘、二十九。その台の真上から二十間ほど後ろの、高い傍聴席にいる。新聞社の速記者で、傍聴席で速記を取っているのはこの十一年、いつも自分ひとりだった。ここで書いた紙はどこにも上がらない。上がらないものを、荒巻は毎日きちんと綴じ、日付の順に棚へ差してきた。厚い年の綴りは背が反るので、上から板を一枚載せて重しにする。載せることを教えてくれた人はいない。議長が速記をとめよと言えば、台の五人は手を止める。止めているあいだに何が言われても、正本には残らない。傍聴席にはその号令が届かないので、そこだけが荒巻の膝の上にだけ残る。檜垣勉、三十四。議院の正本の速記者で、荒巻とは同じ速記塾の兄弟弟子である。師が死んだ年、畳の上に最後まで残った一冊の符号帳の角に、二人の手が同時にかかった。半分ずつにはできない。だから半年ごとに持ち回ることにして、以後二十二期、十一年になる。書き足された私案は二百二十。うち百七十六が荒巻の手で、檜垣は新しい頁を起こさず、荒巻の符号の脇の余白へ、爪の先ほどの大きさで書く。この人は、一度口にした反訳を絶対に言い直さない。夏、審議の一節が議事録から消えているという噂が新聞に出る。檜垣は出どころを荒巻ではないかと疑い、二人は初めて正面から言い争う。やがて檜垣は自分から速記者組合へ照会を請求し、その手続きの中で、当日の自分の原符が手元にないことを知る。記憶では確かに書いた。だが記憶では制度は動かない。毎朝の裏取りのために日付で綴りを引いている男が、その日、綴じ糸の切り口に気づく。組合の宝生きぬは、人を名で呼ばない。返事は、承知しました、受理します、それは受け付けません、の三通りしかない。情でもなく信用でもなく、書類として受け付けられること。手続きは冷たいから、身内でない者にも同じだけ働く。十二月八日。長机の上には、小刀と、新しい糸と、表紙にする厚紙が二枚。BL時代小説・全10章完結。
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    8月14日発売予定

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