柄沢の小屋は谷側の板壁が薄い。冬になると、その向こうを風が縦に走る音が夜通し続く。由良睦、二十八。十七の年からこの山で飯を炊いて、十一年になる。名簿は十六。握るのは十九。三つ多い理由を、由良は十一年、誰にも言えたことがない。上がり口に置いた笹包みは、炭焼きの老人が持っていく日もあれば、地図を作りに来た役所の男が食う日もある。誰も来なければ、翌朝に自分で食う。由良には見立てがある。箸の先の向き、汁の残し方、椀を持ち上げる速さ。それだけで、その客が今日は行かないほうがいいかどうかが分かる。分かると口に出す。出すたびに笑われる。小屋の見立て、と隊の者は呼ぶ。遭難救助隊の隊長、郡司昴、三十六。都から来て五年になるよそ者で、村の言葉を一度も覚えようとしない。名簿と当番表と数字を見て話し、人の顔を見て話さない。この人が由良の言うことを聞くのは、それが数字のときだけだった。村は五年たってもこの隊長を認めていない。谷の名も岩の名も知らんくせに紙ばかり書く、と炭焼きの老人は言う。詰所の板壁は五年ぶんの記録で二面が埋まっていて、埋まったぶんだけ村の口は重くなった。秋に三件出たので、冬も小屋を開けて隊の拠点にすると郡司は言う。同じ日、母の由良たえが山を上がってきて、宿の畳の代金と結納の日取りを並べ、正月までに下りて宿を継げと言い渡す。この家の者は山で稼がない。十二年前、兄が尾根の分岐で左へ入ったときから、そう決まっている。一月十日。単独行の客が発つ前の晩に、由良は三つ根拠を並べて、この人は今日はだめですと言う。郡司はそれを素人の勘だと言って退ける。二日後、村と隊の集まった場で、郡司は自分の口でこう言った。小屋の者の進言は無かった。以後、由良は板の間の東の端、柱から二枚目の板の上に、毎朝ひとつ膳を付ける。母が四か月と少しのあいだ兄の膳を出していたのと、同じやり方だった。客の家族が詰所の机に置いていった白い包みには、細い女の字で宛先が書いてある。郡司はそれを三月と半月、懐に入れて歩く。差し出しかけて手を止め、襟の上から一度叩いて角を確かめる。由良はその手つきを数えている。晩春の詰所で、郡司は綴じ紙を閉じて、それから開き直す。一件、訂正する。表に名は書き足されない。釜は、今日も十七。BL時代小説・全10章完結。

