坂を上がってくる道は一本しかない。買い付けの者は村の入口から順に畑を見ていくものなのに、その男だけは中村の畑も滝沢の畑も素通りして、いちばん奥の三反へ来る。九年、毎年そうだった。万代穂積、二十七。十八の秋に父を亡くしてから、この三反で一種類の豆だけを作っている。莢を割り、一粒ずつ指の腹で撫でて、虫の入ったものを抜く。手で選るのは村でこの家だけで、値もこの家だけが違う。市の相場は一枡二十五銭、阿久津光晴のつける値は四十銭。なぜ高いのかと九年訊きつづけて、答えが返ってきたことは一度もない。その秋、選りの途中で右手の中指と薬指が曲がったまま動かなくなった。医者は、この関節はもう戻らん、と言い、進むとも言った。父も同じ手だった。誰にも言わずに小指を立てたまま最後の秋を選り終えて、冬に寝ついた人だった。阿久津は年に四度この村へ来る。晩秋に一度、初冬に一度、雪のうちに一度、年明けにもう一度。三反の畑にそれだけ足を運ぶ買い付けは、町の帳場では笑い話になっている。四十を二十五に落とせ、落とせないならあの畑から手を引け。番頭にそう迫られても、この男は数だけを言って理由を言わない。万代は戸板を傾け、転がる途中で屑が落ちる仕掛けを自分で作る。指を使わずに済むかわりに、虫だけは取れない。九年で初めて豆を突き返された晩、万代は離れの障子の隙間から、買う側の男が一人で自分の豆を選り直しているのを見てしまう。濁り酒。蓋の欠けた膏薬の壺。隣村の穴生仁作が町の店で一枡七銭で買ってきて、来春から同じ豆を作ると言い切って土間へ置いていった種袋。春になるとその袋は空になって、寄合の真ん中で振ってみせられる。村の畑を合わせれば二千枡、三年で千八百円になるという大手の話が持ち込まれ、その勘定を止めているのは万代の三反だけになる。そして、よその市ではこの豆が村の名でも雑豆でもない別の名で並んでいるという噂。呼ぶと値が上がる名で、その名でしか買わない男が一人いるのだという。初夏の干し場で、阿久津は訊かれる前に口を開く。九年前の晩秋、この石の端に座っていたのは誰だったのか。その晩に誰が何を言ったのか。万代はそれをまったく覚えていない。九年、この干し場から出ていく豆の行き先は一つだった。十年目の枡には、五つの紙が載る。BL時代小説・全10章完結。
