千賀睦、二十七。十八の年から芝居小屋の帳場に座って九年になる。座元というのは、客が銭を落とすより先にこちらが払う席で、舞台に上がることは生涯ない。九年座っていて、いまだに一つだけ出来ないことがある。木戸番の蒲原巌に向かって、やれ、と言うことだ。他の者には言える。給金を払っているのはこちらだというのに、この男の前に立つと語尾が「~してくれませんか」になる。給金の二割増しは、九年で二度断られている。町の刷り物には、先代の名で保つ小屋、今の座元は帳場の番人、と書かれた。客は木戸番の顔で入っている、座元は誰でもいい、と金主も言う。合っている、と千賀は思う。父の顔は町の者が覚えている。自分の顔は誰も覚えていない。そして顔見世の番付は、今年も上段の右から二番目を空けたまま刷らせた。十年目である。いつまで空けるのかと訊いてくる者は、この町に一人しかいない。「なぜ空けているかではなく、いつまで空けるおつもりか」——秋の彼岸から翌年の初夏まで、木戸口十間の距離で。BL時代小説・全10章完結。
