教壇の上には、細長い笠のついた灯が一つ載っている。講師の手だけを下から照らすための灯だ。誰かの手が明るくなると教室の空気が一段静かになって、そこから先は声よりも手のほうが速くなる。芦原望は二十四で、男で、オメガだった。この講座の受講者は二十六人いて、そのうちオメガは四人、男のオメガは芦原ひとりしかいない。十九のとき、高校を出て一年何もしていなかった芦原の右手首を、下から支えて三センチだけ持ち上げた人がいる。それが雨宮尊で、以来五年、木曜の夜はずっとこの教室にいる。雨宮尊、三十八。二十で手話に入って十八年、市の登録通訳で、この講座の主宰。褒めるべき場面でいちばん言葉が減る人である。五年前、登録通訳の申請の紙を持ってきたことがあった。芦原はその紙を三日持っていて、四日目に返した。もう少し、先生のところで勉強させてください。登録通訳でない者は補助という扱いで、名前が出ない。市制記念式典の式次第の「手話通訳」の行にあるのは雨宮の名前で、自分の名前はどこにもない。それでも芦原は照明の角度を三度変えさせ、黒を着て、爪を切って通訳台に立つ。司会が国歌を飛ばした二十秒の空白を、誰も喋っていないのに手で埋める。表彰の四十七人を全部指文字で綴る。四十一人目の孫が、じいちゃんの名前ちゃんと出とった、と礼を言いに来る。ある回、受講者の質問を訳す雨宮の右手が、空中で二拍か三拍止まった。芦原はとっさに質問をもう一度お願いしますと言って場をつないだ。それから進行表を三度書き直し、十五分交代の形を作り、事務局に先回りして通した。理由の欄は空白のまま出した。病院の待合で、整形の診察室から茶色い封筒を両手で持って出てくる人を見た。押し入れの四つ目の箱からは、四年前から点かない古い手元灯が出てきた。師の形見で、線を替えれば三百円、半日で直る。それでも、いい、と言う。甲斐靖、五十二。生まれつき耳が聞こえず、十八のときから坂の途中で八席の店をやっている。講座には月に二度、実際に手話で話す相手として来る。紙に書いていないことは、無いことなのか。その問いを読み取って声にしたのは芦原で、そのとき雨宮の右手はもう止まりかけていた。震えている手を、震えているまま読む人が要る。冬から秋まで、木曜の夜の教室の一年。オメガバースBL・全10章完結。

