素性が知れないと否まれた面打ちですが、無銘のまま面裏をくりつづけたら、宗方の若宗匠が三日に一度途中だけを見に来てくれます

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面裏には打ち手の銘を入れる。名誉のためではなく、次に修理する職人への申し送りだからだ。その面裏に、銘を入れなくていいと言われた。尾花澪、二十六。十六で施設を出る歳になったとき、親方が引き取りに来た。理由は今も聞いていない。それから十年、坂の下の工房で毎朝同じ板の間に座っている。尾花の名は親方のもので、澪は書類の上でだけそれを借りている。看板に自分の名は出ない。修理して返した面の裏に入るのも親方の銘である。男で、オメガで、家がない。あの家の年寄りが三つとも嫌う形だ、と親方は言う。秋、坂の上の宗方家から封書が届いた。若宗匠・宗方巽、三十四。六つから舞台に立ち、二十八年ぶんの板の鳴る位置を覚えている男が、五十年に一度の追善で使う面を名指しで頼んできた。条件は一つ、面裏に銘を入れなくていい。理由は訊けなかった。巽は右へ首が落ちる。だから澪は木口の中心が右へ二分寄った板を選び、当初の予定と逆に左目を深く彫り、目の穴を二分から一分五厘に詰め、面裏を五厘刳った。裏は誰も見ない。誰も見ないところで、かける人の頬骨と顎の隙間だけを考えて刃を入れる。そして巽は、呼ばれもせずに土間へ来て半日動かない。三日に一度来ては、仕上がったものではなく途中を見せてくださいと言う。木地代を三倍置いて親方に頭を下げる。白木のまま面をかけて、面の下で笑う。十八の冬の打ち損じ五枚のうち左から二枚目の前で動けなくなり、面の左の縁を指でなぞって、同じだ、と言う。八年前に一度だけ舞台を降りると決めた冬がある、とだけ話して帰る。その冬、当主の宗方兼親は追善の当日に白河家との縁組をすると通告し、面改めでは一門の年寄衆が銘のない面を見つけて、それを素性の知れない打ち手の面と呼んだ。面は否まれた。工房には黒塗りの車が来て、代金と迷惑料を包んだ袱紗が上がり框に置かれた。澪はそれを持って坂を上がり、玉砂利の白洲に四半刻立たされたまま、三尺高い舞台の縁に向かって初めて声に出す。あの面は、宗方巽のために打ちました。巽の住まいの床の間には、桐の箱が二つ置いてある。片方には何十年も前の古い小面が入っていて、その面の左の縁には、澪の指がちょうど収まる逃がしがある。胡粉十七度、寝かせた檜二十年、八年、二十八年。数と目方だけを数えてきた男が、自分の素性を自分の口で言うまでの、秋から晩春の追善まで。オメガバースBL・全10章完結。

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    8月19日発売予定

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