将棋界において「名人」は、単なるタイトルではない。その歴史は1612年、徳川家康が初代大橋宗桂に俸禄を与えたことに始まり、四百年以上にわたって受け継がれてきた将棋界最高の称号である。現代では竜王と並ぶ最高位とされるが、その重みは賞金や序列では測れない。名人とは何か。その称号を背負う者に求められるものとは何か――。本書は十七世名人・谷川浩司が、自らの名人戦の経験を軸に、江戸時代から現代まで続く「名人」の歴史と本質をたどる一冊である。将棋はどこから日本へ伝わり、なぜ現在のような独自の競技へと発展したのか。家元制度の誕生、将軍家の御城将棋、命を削るように名人を争った若き天才・大橋宗銀と伊藤印達の五十七番勝負、詰将棋を芸術の域へ押し上げた伊藤宗看・看寿の偉業――。歴史の知られざるドラマをひもときながら、「名人」という言葉が持つ意味を掘り下げていく。さらに、大山康晴十五世名人、羽生善治十九世名人、そして藤井聡太名人へと受け継がれる天才たちの系譜を、同じ名人経験者だからこそ見える視点で読み解く。勝負師たちは何を考え、どのような資質によって頂点へ到達したのか。思考力、直感、気力、そして時代への適応力――名人たちに共通する条件が浮かび上がる。終盤では、AIが人間を超えた現代における将棋の価値にも踏み込む。最善手を示すAIが存在する時代に、人間が将棋を指し続ける意味とは何か。名人という存在はこれからどのような価値を持ち続けるのか。将棋界が直面する根源的な問いにも真正面から向き合う。将棋ファンはもちろん、日本文化や歴史、そして「一流とは何か」を考えたいすべての人へ。四百年にわたる名人の歴史を通して、勝負の本質と人間の知性を描き出す、かつてない「名人論」である。
