前の職場で、暴れた獣から逃げて、先輩を助けられませんでした。あの日から、いざというとき体が固まってしまうわたしには、もう生き物に関わる資格などないと思っていたのです。半年ぶりに戻った仕事先は、よそで手に負えなくなった猛獣ばかりを預かる小さな医院でした。獣医の御堂先生は、必要なことしか話さない無口な人。けれど先生は獣舎に入る前、決まって小さな温石を握って手のひらを温め、ある日それを一度だけ、そっとわたしの手にも握らせたのです。理由を尋ねても、短い返事しか返ってきません。処置中に猛獣が暴れ、動けなくなったわたしを、先生は初めて身体で庇ってくれました。誰かがわたしのために動いてくれたのも、名前を呼ばれたのも、生まれて初めてでした。そして最後の宿直の夜、先生は温石を置いて、痛みではなく温もりで、わたしに触れたのです。あの温石が、いつから、誰のために沸かされていたのか。わたしは最後の朝、ようやく知ったのです。本作は黒瀬亘の「わたしの手だけ温める」シリーズ。一話完結・どこからでも。

