家紋をまとわされてきた私を、蒔絵師のあの方は私の文様しか描いてくださいません

家紋をまとわされてきた私を、蒔絵師のあの方は私の文様しか描いてくださいません

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880
柏木紗和、十九歳。傾いた士族の娘として、三つ柏の家紋を生まれたときから身にまとって育ちました。眉墨の小箱にも鏡の柄にも、すべてに家紋。けれど身のまわりのどの絵柄も、わたくしが選んだものは一つとしてなかったのです。この十九年、わたくしは何を好きだと思って生きてきたのでしょう。青柳家との見合いの婚礼調度を誂え直させに、坂の下の蒔絵屋を訪ねます。久我要、三十を一つ二つ越えた蒔絵師。若い頃に漆にかぶれて目を病み、指先で漆と文様を読むその人は、家の書付ではなく、わたくしにこう問いました。「紗和さんは、どんな文様がお好きです?」。答えられぬわたくしのために引いてくれたのは、家紋でも吉祥でもない、名もない一輪の散り花。広い余白のまんなかで揺れる、けれど少しも心細くないその花に、わたくしはなぜだか涙ぐんでしまいました。この方は漆を、使う前に必ず両手で人肌に温める人でした。冷たいまま扱わない。戸棚の奥には、宛名のない蒔絵の下絵が一葉。家はやがて縁談を強く進め、蒔絵屋へ通うことを禁じます。それでもわたくしは、生まれて初めて家に逆らったのです。値踏みも品定めもされない夜を、わたくしは知りました。そして家を出たわたくしに、あの宛名のない下絵が差し出されるとき――そこに書き入れられたのは、柏木でも青柳でもない、わたくしがみずから選び取った、たったひとつの名でした。本作は芹沢ももの「値踏みしないあの方」シリーズ。一話完結・どこからでも。

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