名の通った板前が、なぜか、仕込みと味見に、下働きの俺だけを離さなかった。橘悠成。言葉を惜しむ職人気質の板長。俺は菅野澪、二十五歳。出汁の塩梅を舌で見て、整え直すだけの下働きだ。味を見るだけの仕事に、名前は残らない。椀を握るのはいつも板長で、俺はその外側にいる。それなのにあの人は、お前の舌でなければ椀は出せないと言う。理由は言わない。俺は最後まで、知らなかった。あの人が、四年前の深夜の板場で一度だけ、俺の直した出汁に、包丁を置かずに済んでいたことを。抽斗の奥の柄のすり減った味見の匙が、俺の使っていたものだということを。本作は東雲そらの「名前の残らない仕事」シリーズ。一話完結・どこからでも。

