湖上の楽都リエージュ公国の開鍵祭。「湖畔の調姫」と慎ましく評判の伯爵令嬢アンリエットは、衆目の前で腹違いの妹に「あの方とはわたくしこそが調べで結ばれた一対、婚約を譲ってくださいまし」と泣き伏され、婚約者の宮廷楽長公爵を奪われる――。反論しても沈黙しても、わたくしは負ける。ならば盤面そのものを書き換える。象牙の鍵盤から緩慢に指を上げ、最も雄弁な長い休符を置き、棒読みの微笑で「音色ごとお譲りいたしましょう」と能動的に譲って差し上げた瞬間、貴族たちは「本性を現した」とざわめいた。けれどたった一人――氷の貴公子と呼ばれる公爵レオンだけが、わたくしの悪女の運指を最初から聴き取っていた。「あなたの演奏の作法を読み解く共犯者になりましょう」。敵が自ら仕掛けた密通の罠へ踏み込んでいくその全てを、彼だけが暗い昂揚で称賛してくださる。盤面を書く悪女と、運指を解いた素のわたくしだけが知る唯一の理解者。途切れた短調がやがて満ちた長調へ転じる溺愛の結末へ。女性向けTL長編・全10章完結。

