「私たち」の古典は消失し、ただ「私」の古典だけが残る――
そしてそのような「個人」化が進めば進むほど、今度は古典の価値それ自体を審問にかける声が静かに、そして強く「共鳴」し始めることになるのである――「古典?そんなものいったい何の役に立つんですか?」と。
なぜ古典を学ぶのか。本書はこの素朴な問いに対し、古典に潜む見えない《根源》を問うことから応答する。
古典を学ぶ意義があるのか/ないのかという論点に拙速に答えるのではなく、その問いをいったん留保し、古典を学ぶ意義が《見えない》という現象それ自体に注意を向けるところから議論を始める。対象は、前近代東アジア世界において産出された諸々のテクスト群である。なぜそれらは学ばれるべきものとされてきたのか。
古典を死んだ書物にしないために、私たちは古典にどう向き合ってゆけばよいのか。私たちは自らを縛っている言語と格闘することを決してやめてはならない。
「なぜ古典を学ぶのか」という根源的問題はいかに思考されるべきなのかをも考えていく、思索の書。
