1902(明治35)年、二人の青年が日本人登山者として初めて山頂を踏んだ。彼らの名は岡野金次郎と小島烏水。二人の登頂によって日本の近代登山の幕があいた。その後、小島烏水は日本山岳会の初代会長ともなり日本の登山史にその名を刻むが、岡野金次郎はほとんど記録に残ることなく、山岳界で埋もれた存在になってしまった。なぜ岡野は日本山岳会の設立者として歴史にその名をのこせなかったのか。山の歴史に精通した人たちの間では、小島と岡野は不仲だったとする考えが根強くある。岡野が日本山岳会の創設に加わらなかったことや、二人が山で喧嘩別れしたことなどがその理由だ。著者は数々の山岳書や小島の執筆した本から、その不仲説に疑問を持つようになった。二人は決して不仲ではなく、山で喧嘩別れしたあとも長年深い間柄だったのだと確信することができた。岡野金次郎の生涯は謎が多い。岡野は日記こそまめに書き続けていたが、関東大震災で全て焼失してしまった。登山家全盛期の明治期から大正期にかけて、岡野の山の記録は非公開のものも含めてほとんど残っていない。遺族への取材、そして膨大な資料から浮かび上がる「孤高の登山家」の真の姿とは。